ミャンマー:パガン王朝からイギリス植民地化まで

現地のこと
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最近なにかと話題のミャンマー。

2019年7月にはバガン遺跡が世界遺産に登録されました。観光客も順調に増加しているようです。

以前はバガン遺跡の仏塔パゴダに上って夕日をぼんやり眺めるという楽しみ方ができたのですが、最近は上に上がるのは禁止されたらしいです。(うわさでは観光客が仏塔の上でどんちゃん騒ぎしたからとか。)

でも、ミャンマーというと、 アウンサンスーチーさんとか、イギリスの植民地だったとか、人口が多いだとか、軍政だったとかぐらいしか思い浮かばないのでは?

いうことで、これを機にミャンマーの歴史を噛み砕きながら追ってみたいと思います。出口治明さん的に噛み砕くのはやっぱり難しいですね。。。

バガン(以前の名前はパガン)は、11世紀中ごろ、ビルマ人が作ったビルマ(地域)最初の統一王朝。1044年、パガンに根城を作ったアニルッダ王が周辺地域を征服して、パガン王朝を開いたのが最初の王とされています。

このパガン王朝は、1270年ごろより当時隆盛を誇っていた元の干渉・侵略をうけ、これを契機として衰退、滅亡しました。

パガン王朝滅亡後、中央部にビルマ人、南部にモン人、北及び東にシャン人、西南にはアラカン人の勢力がそれぞれ発展。現在のパゴー地域にあたるハンターワディー(ペグー)ではモン人が王朝を築き、16世紀中ごろまで続きました。

中央部では、15世紀後期にビルマ人のタウングー朝が勃興。16世紀にはタウングー朝がペグーを占領、現在のタイやラオスの地域にも進出し、ビルマ領を拡大しました。港町(ペグー)が中央とつながり、人とモノの移動が容易になった結果、外国人含め交易が盛んになりました。

周辺への度重なる遠征、そのための徴兵・徴税により、支配地域から不満が続出し、16世紀後半には、地方領主たちによりタウングー朝は一度は滅びますが、17世紀中半ばに復興(第二次タウングー朝又はミャウンヤン朝、王都アヴァ)します。

この王朝も、次第に地方領主のコントロールを失い、ペグーの住民に擁立された王により、1752年に崩壊。

※この時期、ウー・カラーによるビルマの本格的王統史「大年代記」が編纂。

第二次タウングー朝が崩壊すると、上ビルマは無政府状態になり、その中で、首長アラウンパヤーが周辺の村を統合して、1752年にコンバウン朝を作りました。これが1757年にペグーを陥れ、ビルマ地域一帯を統一、 コンバウン(シュエボー)を首都としました。この時、ダゴン地域をヤンゴンと改称しました。

コンバウン朝は1767年、タイ・アユタヤに侵攻しアユタヤ朝を滅ぼしました。シャン地域への支配権を巡って清朝の介入も招く。アラカン(現在のラカイン)にも侵攻し、アラカン侵略とその後の支配をめぐり多くの難民がチッタゴン(現在のバングラディッシュ側)に流入しました。

チッタゴンは既にイギリス東インド会社の支配地だったため、これを機にイギリスとの緊張が高まり、英緬戦争が始まりました。

1824年から26年、第1次戦争でイギリスがピェーやパガンを占領し、ビルマは敗北。アッサム、マニプールの総主権を喪失し、賠償金支払うこととなりました。

1852年、第2次戦争でイギリスが南部のペグーを併合。イギリスは下ビルマ領有を開始しました。

1857年7月に新都マンダレーの建設に着手したミンドン王は、下ビルマのイギリスに対抗すべく、富国強兵策を展開。欧米諸国から外国人技師が高給で雇われたほか、100名余の留学生がフランス、イギリス、イタリアなどに派遣されました。

こうした中、ビルマはフランスとの結びつきを強め、1884年には緬仏条約が発効。ビルマ政府がイギリス企業に対して罰金を科す事件を契機に、イギリス軍がマンダレーに向かって侵攻。1885年、上ビルマもイギリスに支配されることとなりました。

つづく

(参考)「新版世界各国史5 東南アジア史 」(石井米雄、桜井由躬雄編)

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