ざっくり戦後ミャンマー政治経済史

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ミャンマーは1948年に英国から独立を果たすも、植民地時代に煽られた民族同士の対立や近隣国の影響/干渉を背景に、国としての一体性を維持することなどを志向するネウィン将軍が1962年に軍事クーデターを起こし、ネ・ウィン政権が誕生しました。

ミャンマーは、1960年ごろまでは英国植民時代の影響や米、宝石、木材などの産地として東南アジア有数の豊かな国として知られていました。 しかし、ネ・ウィン政権による「ビルマ式社会主義」のもと、一党独裁と軍により民族紛争を押さえこみつつ、主要産業の国有化、外国の影響の排除が行われた結果、最終的には東南アジア最貧国に凋落してしまいます。

1963年にはさっそくすべての民間銀行(外国銀行も多数存在していた)の国有化方針が示され、1969年にすべての金融機関を統合しビルマ連邦人民銀行(Peoples’ Bank of the Union of Burma)が設立された。なお、ミャンマー中央銀行自体は、英国の独立時に、植民地時代のインド準備銀行ラングーン支店の機能を引き継ぐ形で1948年に発足して営業していました。

また、1963年から有数の民間事業を国有化されるなど、国営企業が主導する計画主義的ルールが施行された。こうした国営企業では、初期には海外から当時最先端の資本財(日本の日野自動車やマツダも一時期関与していたようである)が導入されたものの、経営がうまくいかず設備が更新されないまま競争力はなくなっていた模様です。(尾高、2014)

農地国有化も同時進行します。ミャンマーの農業は1869年のスエズ運河開通以降、米作農業が急激に発展し(スエズ運河開通により英国にとってミャンマーの価値が高まった)農業金融の需要が高まるなか、チェティア(Chettyar)と呼ばれるインド人金融業者の存在感が高まりました。1929年の世界恐慌の過程で、担保だった農地はインド人に集約化されていましたが、1948年の独立後の農地改革は不徹底となっており、ネ・ウィン政権は1963年に農地改革=農地国有化を目指しました。計画生産、直接買取といった政策が施行される中、ここでもやはり最終的には生産は頭打ちとなり競争力は伸び悩んだようです。(AYE Chan Pwint, 2011)

産業、農業の国有化により競争による活力が減る、鎖国的政策により外国の知識や技術が入ってこなくなる、ビルマ語によるビルマ中心の詰め込み教育による知的中間層の厚みが薄くなる、といったことがこの1962年から1988年に起こっていたと考えられます。

私は、ミャンマーで政府職員と接する機会がありますが、特に政権末期から1990年代に高等教育を受けた人たち(現在の40~60代)は、全体として質の下がった教育に影響を受けてしまったのではないか、と感じる機会が良くあります。これが今後の発展の足かせにならないことを祈るしかありません。

けっきょく、社会主義による経済運営の失敗が、1998年の民主化運動に結びつくことになります。財政の失敗から1987年9月には3度目となる廃貨が行われ、国民生活が犠牲になりました。1987年12月には遂に国連の後発開発途上国に指定され、経済の失敗は明らかになりました。

1988年のネウィン政権崩壊前後の経緯については以下の通り。

1988年3月12 日、ラングーン工科大学近くの喫茶店で学生同士の他愛ない喧嘩が起きた。喧嘩はエスカ レートし乱闘となり、警官が数人を連行した。学生たちは喧嘩相手が人民評議会長の息子だったことで警官の不当な介入があったとして大きな不満を抱いた。さらに、負傷して病院に運ばれた2人の学生の死亡が発覚すると街頭デモが始まった。このデモはラングーン大学にも飛び火し、激しさを増し、断続的に学生デモが続いた。

頭を抱えた政府は遂に同年7月、遂に動く。7月23日、ネウィンはBSPP党議長辞任を表 明。同時に「今後、国軍は命中するように打つ」と警告。後任となったセインルイン元准将は1962年の軍事クーデター時に陸軍中佐としてラングーン大学で学生を弾圧した当事者だったことから、学生たちは、当時弾圧があった7月7日の復讐として8月8日に大規模な民主化デモを行った。引き続く大規模な集会のなかで、アウン・サン・スー・チー氏は40 万人の群集の前で、複数政党制の早急な実現の必要性を訴えた。

9月18日、遂に新たな軍事クーデターが起きることとなる。ソーマウン大将など将校21名は、国家法秩序回復評議会(SLORC)を結成し、国の全権力を掌握した。しかし、SLORCの将校は前政権党BSPPの幹部ばかりで、その後も容赦ない発砲と弾圧が行われデモは鎮圧された。ソーマウン氏は1990年5月に、暫定政権発足時の公約であった複数政党制による総選挙を実施したが、総選挙で圧勝した国民民主連盟(NLD)への政権移譲を頑なに拒んだ。

(主に「ビルマ民主化運動1988 : ドキュメント」(1989、田辺寿夫)より)

1988年後の市場経済化の動き

1988年9月、それまでのミャンマーの政策スタンスをドラスティックに転換し、SLORCは市場経済化を追求する姿勢に転換しました。1988年11月には外国投資法を交付。輸出入も一部を除き自由化、1989年9月には国営企業法を交付し、一部業種を除き国営企業の独占を廃止し、民間企業の参入を解禁。1990 年 11 月に民間工業企業法、1991 年 10 月に家内工業振興法が公布。1994 年 10 月には市民投資法が交付され、事業開始から 3 年間の所得税の免税、初期投資に際しての資本財輸入関税の免除が打ち出されました。

また、金融分野では1990 年に中央銀行法、金融機関法、農業地方開発銀行法が制定され、1992 年から1996年までに20 行の民間銀行(外資含む)の設立が許可されました。こうした市場経済化の大きな流れは、軍政から民政に移管した2020年現在にもつながっています。

1988年8月8日民主化運動後の動き

このあと、1993年1月から憲法制定のための国民会議を招集。2008年5月、民政移管への一歩として新憲法の国民投票が実施され、新憲法が成立しましたが、上下両院議席の4分の1を軍が指名する権限やアウン・サン・スー・チー氏の国家指導者からの排除などを盛り込まれています。

2010年11月、新憲法にもとづく総選挙が実施され,同月にはアウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁も解除されました。選挙では軍事政権の承継政党、連邦団結発展党(USDP)が圧勝。2011年2月に新議員による議会がテインセイン首相を大統領に選出したことで、民政移管となりました。

2012年4月には議会補欠選挙が行われ、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが大勝し、彼女自身も国会議員になりました。2015年11月に行われた議会総選挙では、NLDが6割弱の議席を獲得し与党となっています。

しかしながら、現憲法下で、内政にかかる統治機構(行政機構など)は未だほぼ全て軍が握っている状況であり、これは多民族を抱えるミャンマーが一体性を維持するために必要との名目で軍が権力を手放さなかった結果と考えられます。ミャンマーという国が根本的に抱える課題を背景に、軍の既得権を制限する憲法改正、少数民族の権利保護といった国際社会からの期待に応えることは、アウン・サン・スー・チー氏及び与党・NLDにとって簡単なことではないでしょう。

民族紛争の根本的な解決には貧困や経済格差の解消が必須です。その意味でも、ミャンマー政府は、当面の難しい民族問題には国際社会と協力してやんわり対応しつつ、教育・経済発展を早急に、可能な限り平等に行き渡らせることを志向すべきでしょう。

2011年民政移管後の動き

民政移管以降、 ミャンマー政府は経済特区法の制定、管理変動相場制への移行、外国投資法など,数々の経済改革政策を断行しており、現在もそうした中で重要な制度・法案が次々に成立しています。他国の経済発展にキャッチアップするには、交通やエネルギーにかかるインフラ、登記、投資、会社、金融にかかる制度・法律を早急に整えつつ、外国人がミャンマー人と協力して、ミャンマー国内で生産活動を安心して行える体制を整えることが重要です。

民政移管が実現したことで、EUや米国は民主化への動きを高く評価し、制裁措置の解除や経済援助・技術援助は増えています。日本は、軍事政権下でも無償資金協力と技術協力は続けてきましたが、民政移管を契機として他国と比べても大規模な支援を行うようになっています。それに応じて日本企業の進出も活発です。

私としては、ミャンマーの成長スピードは如何に外国人をうまく使えるかにかかっていると思います。ミャンマー人は保守的でのんびり屋ですが勉強熱心でプライドが高いと言われています。歴史は、民間が儲ける環境を作り競争を促さなければ経済的な成功がないことを証明しています。外資含め民間の経済活動を如何に活発化させるかという観点で少しずつ障害を除去できれば、ミャンマーの未来は明るいでしょう!!

(主な参考文献)

  • 「ミャンマー工業化論:序論的考察」, 尾高煌之助 (2014), PRIMCED Discussion Paper Series, No. 56.
  • 「ミャンマーの農村地域における貧困発生メカニズム」, AYE Chan Pwint (2011), 社会関係研究第17巻第1号
  • 「軍政下におけるミャンマー市場経済化と今後の政策課題」, 江橋正彦 (2000).

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